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仙台高等裁判所 昭和46年(う)77号 判決

被告人 石沢武

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二万円に処する。

被告人において右罰金を完納することができないときは、金五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

但し本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

原審訴訟費用中証人加藤ハルヨ、同佐藤信吉、同武田サダおよび同高久浄子に支給した旅費日当は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は弁護人古沢久次郎作成名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、これをここに引用して次のとおり判断する。

論旨は要するに、原判決は被告人がその運転する自動車によつて人身事故を惹起しながら道路交通法第七二条第一項前段所定のいわゆる救護義務を怠りかつ同条第一項後段所定のいわゆる報告義務を怠つた旨認定したが、原判示日時場所における被害者の負傷は被告人の運転した自動車とは関連がなく、したがつてまた被告人としては右事故を惹起したのが自己の運転によるとの認識もなかつたばかりでなく、被告人が被害者の倒れているのを知つて直ちに停止下車し一旦自車を脇道に駐めたうえ救急車の手配のため電話連絡に走り近隣からすでにその手配がなされたことを確かめ現場に立ち戻つた際には偶々来合わせていた警察官に対して現場の模様を説明していた人があつたので報告することを差し控えたまでであり、間もなく被害者が救急車によつて搬び去られるのを見送つた後にようやく現場を離れたものであるから、別段に救護義務および報告義務違反の罪責を問われるべき筋合はないので、原判決が被告人に対し道路交通法第七二条第一項前段および後段違反のいわゆる轢き逃げの罪が成立するものとしたのは事実を誤認しかつ法令の適用を誤つたものというべきで破棄を免かれないというのである。

しかしながら、所論にかんがみ本件記録を精査し原判決を仔細に検討しても原判示事実は原判決挙示の証拠により優に認めうるところであつてその認定に誤りはなく、かつ被告人において矢張り救護義務および報告義務は免かれ難い場合でその違反の罪の成立はやむをえないところと解されるので、原判決にはなんら所論の如き事実誤認ないし法令適用の誤りの違法があるとは認められない。

すなわち、先ず原判決挙示の証拠によると、本件現場は山形市銅町二丁目二一七三番地先の千歳橋南端に位置する交差点内で、ほぼ東から西に向つて流れる馬見ヶ崎川に架かる全長約一九〇米の千歳橋の道路はその南端から南下して同市宮町に通ずる国道一三号線であるが、その南端附近において馬見ヶ崎川の左岸堤防に沿う道路と交差するとともにさらにその交差点からほぼ東南方の同市旅籠町および七日町方面に通ずる円応寺通りにも分岐していわゆる変形五差路の交差点を形成しており、いずれの路面もアスフアルト舗装で凹凸屈曲はなく幅員約七・六米の橋の南端辺りから南下する幅員約八・三米の道路は南方に向つて緩い勾配となつているばかりでなく堤防沿いの道路も五米ないし七米の幅があるほか円応寺通りの車道幅員は約九・三米もあるうえにその両側に歩道もあり加うるに交差点のいわゆる角切りが十分に施されているので全体的に広濶な展望を保つて視野を妨げるものなく、特に被告車の進路であつた橋から交差点を経て円応寺通りに緩く左折する路上の見通しには殆んど支障がなかつたであろうと認められるのであるが、唯、橋の南端においてその幅員が両側に各一・二米宛直角に拡げられていて恰もその直角に拡げられた欄干の陰に人が佇ずんでいたり蹲まつていたりすればその存在に気付かないことも十分ありうると思われる状況であることが特に注目すべき点として留意される。ところで、被告人は原判示の日は日曜日であつたが午前七時一五分頃山形市城南町の日本通運自動車事業所に出勤し原判示事業用大型貨物自動車ふそうタンクローリーを運転して同市北部の漆山駅裏にある出光興産油槽所に赴きガソリン、灯油および軽油など合計九・〇〇〇立を積み込んだうえ輸送先である陣場の斉藤油店に向つて国道一三号線を南下し午前九時五〇分頃事故現場である千歳橋を渡り切りその南端にさしかかつたのであるが、その直前被告人は千歳橋の北端にさしかかる手前の頃から先行する自動車のあることに気付いてこれに追従しこの先行車の運転の模様やその運転者が婦人であることなど比較的詳細かつ具体的な記憶にもとづいて供述していることが明らかであるうえに他の車両等の通行が閑散でしかも日頃から被告人の通り馴れた道路であつたことなどに徴し前方注視に欠けるところがあつたとは到底窺われず、かつ、被告人が左折した先行車に続いて時速約一〇粁位の低速で円応寺通りに這入るべく、右前輪が路面の小さい凹部に落ち込むのを避けてこれを跨ぐように多少右に切つたうえ左に転把する態勢に入る際に一瞬視線を投げた左側バツクミラーにより自車左後輪の傍に黒いものがあるのに気付き直ちに運転を停止して下車し被害者が仰向けに倒れているのを認めたのであるが、この間に自車がなにものかに衝突ないし接触したシヨツクを感じたこともなければ異常な音響や叫声を耳にしたこともなかつた旨の供述には疑を挾む余地もないのである。しかしながら、偶々被告車に対面して数十米の前方から対進して来た山形交通バスの運転者本間正一およびその車掌石黒久子が目撃した一瞬の状況すなわち被告車の左後輪辺りに被害者の帽子がころがるのを見たことならびに鑑定人上野正吉がその鑑定書に詳細に示した事態の推移の説明すなわち被害者着用のアノラツク背部に被告車の左後輪が空中で接触したことによつて印象されたと判断されるタイヤ痕が認められ次いで転倒した被害者の仰臥位の左体側を被告車の左後車輪のシヨルダー部が挾み込み的に圧迫しもしくは着衣を轢過することによる体側への間接的圧迫が加わり原判示の如き傷害が生じたと判断されることを併せ考えると、おそらくは被害者が被告車の左後輪めがけて飛び込んだのではないかと思わせる蓋然性が少なくはないと窺えるとしても、所論が右鑑定の判断と推論とを誤解して恰も被告車が事故と関係がないもののように主張し、さらにまた被告人が原審公判廷における最終陳述に際していわば先行車によつて惹起された事故であるかのようにいう点は到底容れ難いところである。

次に、所論は被告人には被害者の負傷が被告人の運転と関係があるとの認識がなかつたというのであるが、なるほど前記のように被告人が捜査段階以来原審を通じて供述する如く衝撃を覚えず音響を聞かなかつたという点はおそらく体験の真実を述べたことと認められるのであるが、原判決挙示の照応証拠によると、次の瞬間にはバツクミラーで被害者の姿に気付くや直ちに運転を停止して下車しその転倒している位置が自車進路の左後輪に沿いそのうしろ約二米ばかりのところにあることを見て直ちに自車の左側面の辺りを眺めまわしつつ誰に言うともなく「俺がやつたんだべか」と叫び取り敢えず自車を円応寺通りに避譲して駐めたうえ救急車を呼ぶべく電話連絡に走り廻り既に近隣の商店から第三者が済ませた旨聞かされて被害者の倒れているところに立ち戻つたことに徴し、(これらの点についての被告人の捜査官に対する供述は所論の如く誘導にもとづくものとは認められない)被告人においてすくなくとも自車による事故かも知れないとの未必的な認識はあつたと認めざるをえないのであつて、それすらもなかつたものの如くいう所論も採用の限りでない。

さらに原判決挙示の証拠によれば、被告人は前記のとおり半信半疑であつたにせよともかく被害者の倒れている処に立ち戻つたのであるが、偶々非番で通りかかつた私服の警察官が路上に倒れている被害者を発見し交通事故と直感して現場保存に従事しつつ蝟集しはじめた通りすがりの人々に向つて自分は警察のものである旨を告げ誰に訊ねるともなく「救急車の手配は済んだか」「相手の車を知つている者は居ないか」などと言つていたので、被告人はそれが私服ではあるが警察官であることを知つたうえで「あの商店から電話した」などと応答はしたもののそれ以上右警察官に対し別段に何事も話すことなく唯傍の野次馬にまじつて暫く立ちつくし間もなく午前九時五五分頃その場に到着した救急車が被害者を収用するに際しても別に手を貸すわけでもなく走り去る救急車を漫然と見送つた後ようやくその場を離れ当日の仕事をすませたが同僚上司に対してなんら事故のことは話さなかつたこと以上の経緯が明らかで、かような本件のいきさつは一般に事故を惹起しながら運転を中止することなく逸早くその場から逃げ去るといういわゆる典型的な轢き逃げとはその態様をかなり異にするものであることまことに所論のとおりではある。而して、一般に人身事故を惹起した場合ともかく救急車の手配をすることは必要最少限度の救護措置であることが通常であろうけれども、負傷の程度の如何により或は事故現場が病院の近くであるときなどは救急車を要しない場合もあろうし、事故態様の如何により救護義務として要請される適切な措置の範囲も自ら異らざるをえないと解されるところ、本件の如く後日の調査によれば被害者においてことさらに飛び込むことによつて事故が発生したのではないかと思わせる蓋然性が少なくないと窺えるような場合であつてもその事故直後の段階においては運転者あるいは被害者のいずれの側にどの程度の過失が問われるべき事案であるのか遽かに断じ難いのが一般で巷間にいわゆる「あたりや」とか自殺者の如きも通常の事故被害者と区別され難い場合すらありうるので、人身事故発生のときはさしあたり左様な区別を考慮することなく事故の場所とか負傷の程度とかの具体的態様に即した救護措置義務が一率に課せられるべきものと解するのが相当であり、かかる観点から本件をみるとき、被害者が路上に倒れた儘で僅かに手足を動かしたのみであることから相当の重傷であることは容易に察知できた状況であるからみだりに介抱などの手を加えたり移動させたりすることなく一刻も早く救急車の手配を講ずべく努めた点はまことに事態に適した措置というべく更にまた被告人のそれよりも先に第三者が救急車を呼ぶべく電話を了えたことが判明した以上重ねて同じ手続をとる必要もない筋ではあるが、間もなく事故現場に到着した救急車に被害者が運び込まれるに際しても何ら手を貸すことなく野次馬の一員として佇立傍観し被害者が何処の誰であるかどの程度の負傷で何処の何病院に搬入されようとしているのかその一斑を知ろうとする手だてすら講ずることなく漫然救急車を見送るに止まつた点において、相当の救護義務をつくしたというには些か缺けるものがあつたのではないかといわざるをえず、なるほど本件の場合後日の調査により被害者が殊更に被告車の後輪めがけて飛び込んだと思わしめる蓋然性が少なくないことが窺われるに至つたにしても、原判決が被告人に救護義務違反の罪が成立するとした点にはなんら所論の如き誤りはないというべきである。

なお、およそ道路交通法第七二条第一項後段所定のいわゆる報告義務は警察官をして可及的速かに交通事故の発生を知らしめることにより被害者の救護と交通秩序の回復に適切な措置をとらしめ以て被害の増大と危険の拡大を防止し交通の安全円滑を図らしめる必要に出たものである以上、現場において報告を受けるべき警察官としては左様な緊急措置をとりうる態勢にある警察官であること換言すれば交通警察以外の職務であつても少なくともなんらかの職務に従事している警察官であることを要すると解するのが相当であろうが、本件の場合前記のように偶然に事故現場に通りかかつた非番かつ私服の警察官であつても、転倒している被害者の周囲に群がつて来た人々に対して自分が警察官であることを告げ、救急車の手配がすんだかどうか、相手の車を知つている者が居ないかどうかを訊ねたりしながら、路面にしるしをつけるなど現場保存にあたり、交通事故処理のための職務遂行と見られる言動を示しているときは、同条項後段にいう「警察官が現場にいるとき」という場合に該ると解して差支なく、かかる警察官に対して同条項後段所定の事項を申し出ることによつて報告義務を履行することも容易であつたと思われるのである。もつとも、報告義務は前記の如き行政警察上の必要にもとづくものではあるにしても多くの場合運転者らの事故責任追及につながり犯罪発覚の端緒となる可能性が高く、したがつて報告事項を同条項所定の客観的外形的事項に限局することによつてのみ憲法第三八条第一項との関係で合憲性を保持しうると解すべく、運転者らにおいて自己の住居、氏名、車輛番号などを申し出たり事故発生の経緯を説明したり原因と思う点を開陳したりすることまでが報告事項の一端として義務付けられるべき筋合ではないと解するからには、前記のとおり偶然来合わせた非番かつ私服の警察官であつても、報告されるべき限りの目前の客観的事故態様は一瞥して明瞭に認識し尽したこと当然と思われ既に救急車の手配も済まされてそれを待つばかりであることも了知したと認められる以上、被告人においてそれ以上に右警察官に対して報告すべき事項のあるべきいわれは絶えてある筈はないというべきもののようである。しかしながら、道路交通法第七二条第一項後段のいわゆる報告義務が前記のとおり犯罪捜査と境を接する蓋然性が少なくないにせよそれとは凡そ次元を別異にする行政警察的必要にもとづき公共の利益保全のために公平をはかつて課せられる負担という実質的性質をもつて複数の報告義務者のあることを予定するとともに、同法第一一九条第一項第一〇号はかかる複数の報告義務者の各不履行を別段の留保例外なく一率一様に処罰することを当然としている文理であることにかんがみ、かつまた、報告を受けた警察官から現場に残留することを命ぜられたり必要な指示をされたりすることによつて受忍することあるべき負担の不公平な免脱が許されてよいいわれはないと解すべきであるから、よしんば複数の報告義務者のうちの一人もしくは第三者の報告により或は偶々現認することによつて警察官が報告義務の内容とされている事項を悉く認識了知したとしても、他の関係運転者らの報告義務が発生せず或は消滅すると解すべきではないというべきであり、したがつて所論が被告人において報告義務違反の刑責を負うべきいわれがないという点も同様に採用の限りではない。

以上のとおり原判決にはなんら所論の如き事実誤認ないし法令適用の誤りの違法は存しない。

すすんで職権により原判決の量刑事情を考察するに、記録にあらわれた証拠を検討しても本件交通事故の発生につき被告人の側に咎められるべき過失があつたとは窺われずむしろ被害者が本件事故のかなりまえから現場附近に不自然な挙動で佇立していたことが明らかで鑑定人上野正吉がその鑑定書中において論及するように被害者自らが被告車の後輪の辺りに飛び込んだと疑わしめる節が濃いこと、前叙のとおり被告人は直ちに運転を停止して救急車手配のために走りその済まされたことを確認して事故現場に立ち戻り被害者が救急車によつて搬び去られるまでその場に残つていたことを考えあわせると被告人の蒙つた迷惑の程少なからざるものがあるというべく、被告人に道路交通法第七二条第一項前段および後段にいわゆる救護義務および報告義務に違反した刑責の問われるべきことまことにやむをえざるものありとするも情状において酌むべきもの少なしとせず、この点において原判決の量刑は重きに過ぎるものというほかなく破棄を免かれない。

よつて刑事訴訟法第三九七条第一項、第三九二条第二項、第三八一条により原判決を破棄したうえ同法第四〇〇条但書に則り当裁判所において更に次のとおり判決する。

原判決が適法に認定した原判示事実を法令に照らすと、被告人の原判示所為中、救護義務違反の罪は道路交通法第七二条第一項前段、第一一七条に、報告義務違反の罪は同法第七二条第一項後段、第一一九条第一項第一〇号に各該当するので、いずれも所定刑中罰金刑を選択し、以上は刑法第四五条前段の併合罪であるから同法第四八条に従いその合算額の範囲内で被告人を罰金二万円に処し、被告人においてこの罰金を完納することのできないときは同法第一八条に従い金五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、なお情状憫諒すべきものがあること前記のとおりであるから同法第二五条第一項により本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予することとし、原審における訴訟費用の一部は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により主文末項のとおり被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。

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